神 姫 バ ス の 歴 史 〜 そ の 9 〜



9.逆境をバネに更なる発展を目指して
 モータリゼーションの影響や、オイルショックによる打撃を受け続けた神姫バスに明るい光が差し込んできた。中国自動車道の吹田〜落合間の開通である。神姫バスは、国鉄バス(現西日本JRバス)と協定を結び、昭和50年11月1日から大阪〜津山間(国鉄バスの一部は大阪〜落合間)に中国ハイウェイバスの運行を開始した。また、神姫バス単独路線として佐治・柏原・西脇・粟賀の各地から新大阪への路線を開設し、同時に運行を開始した。

 昭和53年頃からは、各営業所の老朽化や拡張のために移転や新設が活発に行われた。姫路では、野里営業所が移転して姫路北営業所と名称を変更。三田駅の近所にあった三田営業所は、国道176号線沿いに移転拡張を行った。他にも、社・小野(現神姫観光バス小野営業所)・西脇・加古川といった営業所が相次いで新築移転を行った。なお、三田・加古川の営業所は現在再度移転を行っているが、その他の営業所は現在の位置である。

 昭和55年11月20日に、団地輸送専門の会社として神姫ゾーンバスが設立された。神鉄木幡駅〜志染駅間の各駅の近隣に開発されたニュータウンが出来て人口が増加したものの駅とニュータウンを結ぶ交通機関が無いため、住民の要望で路線バスを運行することになり、神姫バスの100%出資子会社として設立されたものである。開設当時は、志染駅〜志染団地〜自由が丘線、緑が丘駅〜緑が丘団地循環線、押部谷駅〜富士見が丘団地〜緑が丘線、栄駅〜桜ヶ丘団地循環線、木幡駅〜秋葉台循環線といった各駅を起終点にする路線であり、当時としては非常に画期的なものであった。

 昭和57年には、観光バス事業の新規需要開拓を目指してデラックスサロンバス「RAINBOW」を導入した。これは、ふそうのフルデッカー車の車内に、土足禁止のサロン室や、本牛革張りのシート、クリスタルビーズのシャンデリアといった贅を尽くした内装だった。このサロンバスは、1台だけの導入ではあったが非常に好評だったようである。

 明るい話題のなかで、バス離れは依然として進み特に山間部の過疎地域は若年層の都会流出で一層厳しいものになっていた。そんな状況であるが、残された高齢者にとってバスは必要な乗り物であり、この方たちの負担を軽減するべく昭和58年3月から西脇営業所と山崎営業所管内の過疎路線でフリー乗降バスを導入した。これは指定区間なら、どこでも手を上げるだけでバスに乗れ、事前に運転士に申告するとどこでも下車することが出来る制度であり、荷物を持った高齢者の方などが家の前からバスに乗れると言うことで好評を博している。

 依然厳しい経営環境の神姫バスだが、昭和60年代に入ると更なる発展を遂げることになる。


昭和50年から運行を開始した中国ハイウェイバス。
開業から30年が過ぎても依然人気の路線だ。

神鉄沿線の団地輸送を目的に設立された神姫ゾーンバス。
緑が丘循環線は設立当時から伝統の路線。