神 姫 バ ス の 歴 史 〜 そ の 7 〜



7.近代化への歩み〜その2〜
 戦災復興も一段落し、近代化への道を歩み始めた神姫自動車は、高度経済成長期の流れにも乗って順調に発展していった。

 昭和34年には、輸送力増強5ヶ年計画を立て、推進していくこととなった。その中の一つに、輸送効率を上げるために従来の担当車制から、1車複数乗務制もしくは、フリー制への切替が行われた。これにより、車両台数の削減や運用の効率化が図られるようになったが、そのために車種の統一や、車齢の若返り、故障率の減少などが課題であった。神姫自動車は、これらの問題を解決するために、現業部門に理解を得ながら、車両を1営業所1メーカー制とすることとし、「ふそう」と「日野」のどちらかを配属するように統一が図られた。

 昭和30年代には、当局の指導もあって1路線複数営業の動きが活発化してきた。これは、従来神姫自動車単独路線に他社が乗り入れてくるものであり、当局としては競争原理を導入することによって、サービス向上や公共福祉の増進をもたらすと考えられていたが、一歩間違えば乗客不在の潰し合いになりかねない状況であった。

 神姫自動車では、無益な争いを避けるために、昭和34年12月に山陽電鉄バスと運輸協定を締結し、明石〜西脇線、山電網干〜竜野〜山崎線に山陽電鉄バスの乗り入れを認め、1路線複数営業の流れに対応したのであった。しかし、神戸電鉄バスがこれに反発し、昭和35年3月に明石〜西脇線、明石〜平野橋線、小野〜西脇線、明石〜小野線、小野〜北条線の免許申請を行ったのである。この申請に対して、2年後の昭和37年9月に小野〜西脇線の認可が下りた。この後も、小野〜白川峠〜神戸線の申請などが行われたため、日本乗合自動車協会(現在の日本バス協会)に提訴した。その後、神姫自動車と神戸電鉄バスの間で何度となく話し合いがもたれたが、いずれも不調に終わり、争いは長期化していったが、昭和44年12月に神戸電鉄社長と、神姫自動車の三枝社長とのトップ会談によって、お互いの輸送分野を尊重し、互譲協調による円満な事業運営を図ることとなり、長かった紛争が円満に解決することになった。

 昭和40年代に入ると、マイカー時代に突入し、各地で交通渋滞が起こりバスの定時性が確保できなくなり、その為に乗客のバス離れが始まるのであった。


1営業所1メーカー制の採用により、明石営業所にはふそう車だけが
配属されていた。

神姫自動車と熾烈な路線争いをしていた神鉄バス。
現在は、路線部門からは撤退しており、貸切専属となっている。