神 姫 バ ス の 歴 史 〜 そ の 6 〜



6.近代化への歩み〜その1〜
 空襲により市街地が焦土と化した姫路市は、昭和23年から全市域の区画整理事業に取り組んでいた。昭和27年には区画整理事業の一環で、国鉄姫路駅前から姫路城まで幅員50メートルの道路建設工事を行う事になった。この当時の、山陽電鉄姫路駅は、今の姫路市営バスターミナル付近にあり、神姫合同自動車本社も国鉄姫路駅と山陽電鉄姫路駅に挟まれる所に位置していたため、立ち退き地域に指定された。
 このため、移転交換地に指定された50メートル道路の西側に、山陽電鉄と提携して、山陽電鉄姫路駅・山陽百貨店・神姫合同自動車本社などを一体としたビルを建設する計画が立てられた。

 神姫ビル建設計画が進展し始めたときに、神姫合同自動車に不幸が訪れた。神姫自動車の創設者であり、初代社長の木下栄氏の死去である。昭和27年5月26日、木下栄氏、享年69歳であった。

 木下氏の亡き後も、神姫合同自動車の発展計画は着実に進められた。この年の11月には、赤穂〜小島・赤穂〜御崎・赤穂〜塩屋など、現在のウエスト神姫の営業路線を運行していた赤穂交通を買収し、全播磨地区の掌握に成功したのである。

 昭和28年には、神姫ビル第一期工事が竣工し、山陽百貨店が開店した。また、こういった近代化のシンボルとして、この年、「神姫バスの歌」と社歌が制定された。なお、「神姫バスの歌」は、2006年に神姫観光よりCDが現代版として発売されています。

 昭和30年11月、神姫合同自動車で初めて、姫路地区でワンマンバスの運行が開始されました。労働基準法の改正で、女性や年少者の深夜業が禁止になったため、車掌確保が困難になったためである。その為、野里線、自衛隊線、車崎線でワンマンバスの運行を始める事になった。この時の経験が、後のワンマンカー拡大に貢献する結果となったのである。

 近代化を進める中、昭和31年5月に行われた株主総会では、昭和18年の大合併によって改名した「神姫合同自動車」の社名を、もはや一企業として完全に同化したとして、社名を再び「神姫自動車」に改名することを決定した。これが後に「神姫バス」誕生の布告となるのであった。


山陽電鉄と提携して建設された神姫ビル。
幾度かの改築を経た後、現在の姿となり、
8階には神姫バス本社が納まる。