神 姫 バ ス の 歴 史 〜 そ の 4 〜



4.戦時編
 昭和12年に始まった日中戦争は、昭和16年には太平洋戦争へと発展していきました。当初優勢だった日本も、ミッドウェイでの敗戦から戦況は一変し、不利な状況へと変化していき、やがて国民の負担増へとつながっていったのです。一般家庭では、食料の配給制などがありますが、企業にも戦時下の規制が始まりました。それが、戦時統制です。自動車会社に限らず、乱立している中小の企業を統合する事により、事業強化を図り産業の発展に繋げるのが目的だった。もちろん、神姫自動車にも主務省から周辺事業者との合併命令が下された。

 この合併命令は、神姫自動車・山陽自動車・相生合同自動車・播電自動車・柏原自動車の5社に対してくだされた。神姫自動車としては、これ幸いと関係企業の吸収合併に取り掛かろうとしたものの、山陽自動車が異議を唱えた。山陽の言い分としては、当時神姫自動車は主に東播地区に勢力を持っており、一方の山陽自動車は西播地区に勢力を持っている。だから、神姫自動車は東播地区の各社と合併して、山陽は西播地区の各社と合併したらそれでいいじゃないかというのである。しかし、主務省としては、一社にまとまってもらいたいという思惑があり、神姫・山陽双方に妥協案を示してきた。それは、相生合同・播電・柏原の3社は神姫自動車が吸収合併する。その後、神姫自動車と山陽自動車は対等に合併するというものである。双方ともこの条件を飲み、昭和18年5月1日晴れて神姫自動車と山陽自動車は合併する事になったのである。この時、対等合併なのだから、神姫・山陽双方の名前が社名に収まるべきだと言う山陽自動車側の意見があったが、適当な名前が無かったために神姫の名前だけを残しつつ、合同を強調するために、昭和18年5月15日に神姫合同自動車株式会社に社名を変更したのである。

 昭和18年5月29日に、明石から再び姫路へ本社を移転した神姫合同自動車は、8月に摂丹自動車を合併、10月には播丹鉄道自動車部・篠山自動車・清水自動車の3社を買収して戦時下の大合併を終えたのである。この時点で、資本金264万6400円。免許キロ1502キロ。車両数571両を誇る大企業に発展していた。

 日本各地で米軍の空襲が始まった昭和20年。神戸・姫路も例外ではなく、神姫合同自動車も多大な被害を受けた。3月17日(注)の神戸大空襲では、三宮にあった神戸支社が全焼し、さらに7月4日には姫路が空襲を受け姫路本社と駅前車庫、飾磨の山電駅前車庫が全焼し、バス20台を含む40台が被害にあった。当然、従業員やその家族も被害にあったと思われるのだが、木下栄氏は、復興のために全従業員に集合を命じ、辻井に開設した復興仮本部に全従業員が集結したのである。
「姫路の復興に必要なのは、交通手段である。焼け跡をバスが走る事によって、みんなが元気になる」
木下氏は、こう言って空襲明けの7月5日から早速、姫路市内でのバスの運行を再開したのである。更に、翌6日には市川工場に臨時本社を設置し、神姫合同自動車と姫路市の復興に力を注いだのである。その後、8月15日に終戦を迎え、戦後の混乱期に突入していくのであった。

(注)社史によると、4月17日に第1回神戸大空襲が行われ神戸支社が被災したとあるが、空襲の記録を調査した結果、第1回の空襲は3月17日に行われており、4月17日に空襲が行われた記録が無いため、神戸支社全焼は3月17日としています。